1.民主主義の問題と限界
民主主義も主権在民も、「集団内の構成員を統治者と被統治者とに区分するのではなく、自分たちの集団を自分たちが統治するものである自治の原理」を意味する。しかし、この自治もつきつめて考えると、次のようないろいろとやっかいな問題をはらんでいる。
【自治の実現における問題】
1)集団の意志を決定する方式をどうするかという問題。
2)集団を律する規則や法をどうやって決定するかという問題。
3)集団として決定した事項や、法をどうやって実行するかという問題。
4)集団を運営するための資金や労力を構成員がどのように負担するかという問題。
5)集団内の紛争の解決の方法の問題。
6)集団からの委任を受けて全体のためのサービスを行なう事務局が官僚化して、民主主義が崩壊するのをどうやって防ぐかという問題。
7)集団内の紛争の解決や、負担の強制のように、集団の自治のために特別に強制力を与えられた機関が権力機構となり、集団の民主主義を崩壊させることをどうやって防ぐかという問題。
【集団での意思決定方式の分析】
集団としての意思決定の方式には、「全員一致で決定」,「4分の3以上の賛成で決定」,「3分の2以上の賛成で決定」,「2分の1以上の賛成で決定」,「委員会の決定に一任」,「ボスの決定に一任」,「各メンバーの特性によりメンバーの意見に重みを持たせて、重み付き総和により決定」のように、様々な方式が考えられます。
1)「全員一致で決定」という方式は、各メンバーが拒否権を持った状態となります。したがって、99%の人が賛成でも1人が反対であれば決定が行われず、結果として現状維持が実現されます。悪くすると、現体制で利益を得ている現状維持派による独裁となります。
2)「4分の3以上の賛成で決定」,「3分の2以上の賛成で決定」,「2分の1以上の賛成で決定」のどれもが、「全員一致方式」での「拒否権による独裁」の弊害を避けつつ、できるだけ多数の意見を反映した決定(多数決)としたいという思想を持った決定方式だと思います。この方式は、たいていの場合には妥当な結果をもたらすのですが、特定の少数派集団の意見が、いつの決定においても全く反映されなくなり、その少数派にとって非常に不利な決定が常になされる可能性があるという問題があります。例えば、アメリカンインディアンを荒涼たる砂漠地域に閉じ込めて生活をさせるという決定が国家としてされるようなものです。基本的人権の思想により、多数決方式に対して限界が与えられる必要があります。他の解決方法としては、少数派側の集団と多数派側の集団に分裂させて、各集団内での多数決方式にする事で、できるだけメンバーの希望がかなうようにする事が考えられます。宗教や民族によって国が分裂する現象は、このような事態だと思います。しかし、この分裂は完全にはできません。少数派側の集団に取り残されたごく少数の元多数派のメンバーは、少数派側の集団におけるマイノリティとして迫害される事がよくおきます。これが、分裂後の集団の間の紛争の原因となる事がよくあります。
3)「委員会の決定に一任」の方式
この方式の中で、委員を全メンバーの投票で選出するものが、間接民主制です。委員が固定されているか、既存の委員によって新規加入の委員が決定されるものは、貴族制だと思います。貴族制は明らかに非民主的な方式であり、問題外です。間接民主制にも様々な問題がありますが、現状の多くの国や自治体で採用されている方式です。
4)「ボスの決定に一任」の方式
この方式の中で、ボスを全メンバーの投票で選出するものが、「大統領制」です。ボスが固定されているか、先代のボスが次のボスを決定するのが「君主制」です。「君主制」は、非民主的な方式であり、問題外です。「大統領制」では大統領の暴走や、大統領が君主に変質するのを防止するために議会が設けられていて、議会に大統領の決定に対する拒否権を与え、大統領に議会の解散権を与えている場合が通常だと思います。
5)「各メンバーの特性によりメンバーの意見に重みを持たせて、重み付き総和により決定」の方式
審議会などで、各界の代表者や専門家とされる人々を集めて審議し、審議会の結論に対する一般の意見は公聴会と称して形式的に開催して軽く聞き流し、審議会の結論を尊重して、ほぼ審議会の結論どおりの決定を下す場合が、これに相当すると思います。審議会のメンバーの意見に大きな重みを付与し、審議会に参加しなかったメンバーの意見は重みがほとんどゼロです。審議会のメンバーを選ぶ人間や審議会の事務局が、審議会を実質的に支配できる方式です。
【集団の意思決定での多数決原理の限界】
国のレベルでの民主主義は、国民が国の状況を知り、国民の意志で国民のための政治を行なうものである。「国民の意志」の中身を決定するために「多数決原理」が用いられている。「国民のための政治」は、「最大多数の最大幸福を目指す政治」を意味し、これが「多数決原理」と結びつく。しかし、多数決原理には大きな欠陥があることを認識すべきである。端的に言うと、多数決原理が暴走すると、「村八分」や「魔女狩り」のような非人道的な事が、多数の横暴として発生するのである。個人の最低限の権利(基本的人権)が、多数決原理によって脅かされる可能性がある。多数決原理は万能ではなく、「基本的人権」という原理によって、限界を与えられている。
【民主国家の条件】
民主国家とは「民意による統治が行われている国家」であると思います。「民意による国家統治」とは、「国家を管理するために国民が設置した機関である行政機関,司法機関,立法機関からなる政府機関を民意で制御する事」であると思います。
制御を実行するためには、制御対象である政府機関に対して、市民による「観測」,「評価」,「指示」が必要です。また、制御をさらに有効に行なうためには、制御対象の「構造調整」や制御対象の動作を決定するプログラムである「法の改廃」がさらに必要になる場合があります。
「観測」,「評価」,「指示」,「構造調整」,「法の改廃」を細かくみていくと次のようになります。民主国家の民主度は、「観測」,「評価」,「指示」,「構造調整」,「法の改廃」を、どれだけ市民が主体的に素早く、効果的に実行できるかによって評価できると考えます。
「観測」: 政府機関の情報を市民に対して公開する情報公開の実行、政府機関を市民の代理人として制御する大臣による政府機関の情報の取得。
「評価」: 政府機関の仕事の質,量,スピード,態度,効率,公平性,透明性,合法性などについての市民による評価、政府機関を市民の代理人として制御する大臣による評価があります。さらに、司法機関によって、行政機関の業務を法的にチェックする事もあります。また、会計検査院や行政監察局のように政府機関を監視する政府機関もあります。
「指示」: 観測と評価に基づいた市民による政府機関に対する指示、政府機関を市民の代理人として制御する大臣による指示。
「構造調整」:政府機関の業務が民意をより良く反映するために、政府機関の人事や組織を改変する事であります。通常は、市民の代理人としての大臣が実行しなければなりません。
「法の改廃」: 法に基づいて業務を行なう法治国家での政府機関の業務内容を大きく変更するためには、法の改廃が必要です。市民が直接に法を制定したり、市民の代理人である議員からなる議会が民意に基づいて制定します。
市民が政府機関を制御するための政府機関に対する「観測」,「評価」,「指示」,「構造調整」,「法の改廃」に対して、日本では行政機関による直接又は間接の侵蝕が存在しています。行政機関が市民に対して義務教育と称して行なう教育行政は、市民の頭脳を行政機関が制御する事を意味しており、民主主義に対する大きな侵食作用となっています。民主主義の観点からすると、行政機関が教育内容を統制することは、大問題であると思います。
【間接民主制の限界】
多数決原理の実現を、今の日本では間接民主制で実現している。間接民主制は、議会での投票権を持った議員を国民が選んで、議員に議会での投票を任せている。そのかわり、その議員を選ぶときには議員の公約や人格を国民が評価するというものである。しかし、間接民主制では、議員の公約違反や政党の離合集散のために、選挙での国民の意思表示と議会での議決が矛盾するようになってきた。現状では、議員の公約違反に対して刑事罰もないし、有権者からの損害賠償請求も行われていない。従って、国民は議員の公約違反について、次の選挙まで我慢するしかない状況である。本来は、議員も政党も公約とは異なる投票行動を議会でやるのであれば、その前に再度、選挙の洗礼を受けるべきである。間接民主制では、本来は「国民が選挙公約として表現された政策を選択すべきである」にもかかわらず、結果としては「簡単に公約違反をする議員を選んでいる」という欠陥がある。これはあたかも壊れたリモコン装置で、ラジコン飛行機の操縦をしているようなものである。右に旋回するようにリモコンのレバーを押したにもかかわらず、リモコンの内部回路が壊れていて、ラジコン飛行機が左に旋回してしまっているようなものである。現状の間接民主制は、情報処理システムとしては、「情報の伝達歪みが大きい」,「情報のサンプリング周期が長すぎる」,「情報処理速度が遅すぎる」,「内部ロジックが見え難いので、デバッグがやりにくい」という限界を持っている。
2.直接民主制と間接民主制のバランス
民主主義とは、「行政を国民が制御すること」である。行政は、国民による自治をおこなうための事務局である。
事務局が勝手気ままや、秘密主義に陥ることを防止するには、行政を国民が制御しなければならない。事務局を制御するための指令を国民が形成するために、現在は間接民主制を採用している。間接民主制は、専門家が深く政策を研究して、個別の利害関係に影響されないで、最大多数の最大幸福および基本的人権の保証と、国民の生活の最低レベルの向上を図らねばならない。しかし、現在の議員にはそのような政策を探求する事ができる時間と資金が不足している。また、そのような素養のない人(政策もないのに議員になった者、労組出身議員や世襲議員に多いタイプ)も混じっている。この弊害に対処するために、直接民主制を一部でも取り入れようという動きが出てきている。直接民主制の欠点である「意志決定が、感情に流されやすい。政策研究を一般人にはできない」との問題を低減するために、市民型シンクタンクが必要になってきている。今後は、市民型シンクタンクと議員との政策競争がおこなわれていき、直接民主制と間接民主制の最適なバランスが実現されるであろう。
3.規制による「個別利益」と「全体利益」のバランス調整
「多数決原理」によって損なわれる可能性のある「個別利益」である「基本的人権」も、「市場原理」によって損なわれる可能性のある「全体利益」である「環境」なども、法律などの規制によって守る体制となっている。この「規制」は、国民が自分達の幸福のために、自分達を統治する自治の実現のためのものである。規制による「個別利益」と「全体利益」のバランス調整を行なうために、立法,行政,司法をおき、政治家と公務員と裁判官とにこのバランス調整をさせている。
しかし、特に行政の公務員は、このバランス調整をするのではなく、資源,権限を自分達のために使うようになって、「官僚」と呼ばれる存在となっている。
4.官僚主義との戦い
民主主義や市場原理の欠陥を是正するために必要な規制を、官僚に任せてしまった結果、「全体利益」も「個別利益」も損なわれ、「官益」のみが増大して、国が衰退していきつつある。ソ連の崩壊は、まさにこれである。官僚による国家の侵蝕を解決するには、個人も企業も自己の個別利益のみを追求するのではなく、全体利益も増進するような行動と思考ができるようにならなければいけない。価値観の大変革が必要である。
5.市場原理の限界
「市場経済」は、「市場での自由競争を通じて需要を最適に満たす供給が行なわれ、自由競争に勝ち残る者は適者である」という前提で成立する経済である。顧客は自分の「個別利益」や「個別の欲望」を満たすために、商品やサービスを選択して、購入して消費する。簡単に言うと、商品やサービスを安く、高品質に顧客に供給できる者が市場で勝ち残る。しかし、市場原理にも大きな欠陥があることを認識しなければならない。市場原理が暴走すると、公害を撒き散らしながら、安く製造された商品が市場で勝利するという事になる。公害は国や地球全体の不利益である。各企業が公害防止をしないで、環境汚染をさせながら、安い製品を生産し続けると、国全体や地球全体が汚染され、「全体利益」が損なわれる。これは、「市場原理」によって追求される「個別利益」と、「全体利益」が対立しているとも見れる。
6.環境負荷を削減するための経済システム
大量生産、大量消費、大量廃棄の方向の駆動力は、「所有権」に基づいたマネーの動きである。「物」が地球上から採取されて、生産の材料にされ、製品となり、商品となる過程で、「所有権」が「物」に付随して移動していく。「所有権」の移動にともなって、その逆方向に「所有権の譲渡対価」としての「マネー」が移動していく。しかし、「廃棄物」を地球上に排出する際には、廃棄物の所有権を受け取る事の対価として、廃棄物を廃棄する者にマネーを支払う者がいない。すなわち、「廃棄物処理」は完全な市場経済では、本質的にマネーを稼ぐことを駆動力としては、発展・改革できないシステムとなっている。
そこで、「環境負荷軽減証明」に基づいた「税額還付」の仕組みが必要となる。
すなわち、環境負荷が、所定の値よりも大きな製品については、そのような製品を所有しているだけで、その製品の所有者から「環境負荷税」を国は徴収することとする。
例えば、製品Aの環境負荷がEだとすると、製品Aの所有者Xには、Eに比例した環境負荷税Fが、課せられる。しかし、製品Aを処理して、個々の部品に分解したり、化学処理することで、製品Aの環境負荷をEよりも小さなαEに減少させる「廃棄物処理業者」Yがいたとする。この廃棄物処理業者Yから、Xが「環境負荷軽減処理証明」を得たとする。Xは、「環境負荷軽減処理証明」を国に提出することで、環境負荷Eの製品Aについて支払っていた「環境負荷税」について、環境負荷の減少分の還付を受けることができる。
このような経済システムを作ることで、環境負荷の大きな製品の生産自体が減少するし、環境負荷の大きな製品であっても、その廃棄処理が環境負荷をできるだけ軽減するように行われるようになる。